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2009年5月10日 - 2009年5月16日

Superfly

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2009年第一弾シングル「My Best Of My Life」をリリースしたSuperfly。天海祐希主演、フジテレビ系刑事ドラマ「BOSS」主題歌。Superfly初の6分を超える王道バラード。ボーカル志帆が歌詞に“今の自分を投影した”と語る、ドラマのイメージにピッタリな力強さと優しさを感じさせる作品となった。
カップリングには、昨年のホールツアーのテーマソングとして書きおろされた「Welcome To The Rock'n Show」。そして、Superflyのシングルでは恒例となっている洋楽カバー、今回は、70年代のアメリカンロックを牽引したリック・デリンジャーの「Rock and Roll Hoochie Koo」をピックアップ。プロデューサーの蔦谷好位置の呼びかけにより、ドラム 中村達也(Blankey Jet City)、ベース 日向秀和(STRAIGHTENER)、ギター 百々和宏(MO'SOME TONEBENDER)という豪華な顔ぶれで一発録音したもの。そのスーパーセッションの様子はフォトギャラリーでチェック!

(goo)http://music.goo.ne.jp/special/superfly_090513/

既に感染拡大の可能性

 新型インフルエンザに関する政府専門家諮問委員会委員長の尾身茂自治医科大教授は16日、「感染しても軽微な例が多く、国内で既に感染がじわじわと広がっている可能性は否定できない」と述べた。
(nifty)

ミツバチ“失踪”

 果樹栽培などに使われるミツバチが急速に減少し、いまだに原因が解明されていない問題で、農林水産省は13日、ミツバチ“失踪”の謎に挑む研究者グループの募集を始めた。研究費用は1000万円を上限に農水省が負担する。

 農水省によると、ホームページなどで、今月26日まで、大学や研究機関などの研究者グループを募集。審査の上、1グループを選び、研究委託契約を結ぶ。研究者らにはミツバチ減少の実態について調査研究し、原因を解明することが求められる。

 果樹栽培の受粉などに使われるミツバチは、平成20年に農水省が行った調査でも前年比14%減少しており、各地の農家では、ミツバチ不足が問題となっている。

 農水省では、寄生ダニによる大量死や輸入ストップなどが原因と推測しているが、正確な原因は分からないため、根本対策も講じられず、担当者らも困り切っていた。そのため、科学的に研究者を募集することにした。
(産経新聞、YAHOO!JAPAN)

カピバラタクシー!?

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カピバラの背中に乗って移動するリスザル=埼玉県宮代町の東武動物公園(写真:産経新聞、YAHOO!JAPAN)

05月13日のココロ日記(BlogPet)

今日、作るしてたらhiromi-329-bbiqさんが近くにいる感じがしたんです。もう!覗きはらめぇ!ですよ!

*このエントリは、ブログペットのココロが書いてます♪

軍艦島

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端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている。

端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされ(発見者は不明)、これは日本における石炭の発見(三池では15世紀頃)や隣の高島でのそれ(1700年頃)よりもだいぶ遅い(この頃には既に高島炭鉱から相当な量の石炭が産出され、燃料として使用されていた)。しかし『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(埋め立てにより現在は高島の一部となっている)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)。

このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である。

1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)までに成長した。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。

1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいることから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし「軍艦島」とはあくまで外部からの呼び名であり、島民は専ら「端島」と呼んでいた。また、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートはまだ少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。

戦時中に米軍潜水艦が本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだという逸話があるが、実際は停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を狙って撃沈したもの(1945年6月11日)であった。

端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭。人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。

1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年(昭和40年)に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた。

(画像はGoogle検索より、Wikipediaより)

軍艦島を世界遺産にしようという動きもあります。
http://www.gunkanjima-wh.com/

軍艦島観光
http://gunkan-jima.com/

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